内田樹氏のプロフェッショナル論
どうして、内田樹氏はこうした表現ができるのだろうか。到底、私では届かぬレベルであると思うが、記述の内容は、万人に通じるものがある。こうした感覚をテニス界でも感じて欲しいと願っている。
「内田樹の研究室::新学期がそろそろ始まる 」から、内田樹氏のイチロー選手に関する記述を引用しておこう。いったいいつになったら、こうしたレベルに到達したテニスプレーヤを見ることができようになるのだろうか・・・
お題はイチロー。
先日、9年連続200本安打の記録を立てた偉大なベースボールプレイヤーであるが、記録に言及されることをあまり喜ばないのはどういうわけか。それは彼の卓越したパフォーマンスを数値的にしか表示しようとしない日本のスポーツメディアの能力の低さにうんざりしているからではないかという話をする。アスリートのパフォーマンスを数値でしか語れないというのは、現代日本を覆い尽くしている「幼児化」の端的な徴候である。スポーツメディアが書くのは「数字」と「どろどろ人間模様」だけである。アスリートについて書かれていることは、記録や順位や回数について、ローカルな人間関係についてか、ほとんどそのどちらかである。
ベースボールプレイヤーについて書くときに、打率や打点や本塁打数や出塁率やにしか言及できないというのは、喩えて言えば、バレーダンサーのパフォーマンスについて論じるときに、ピルエットの回数とかジュテの高さとかリフトしたバレリーナの体重だけを書き、「舞踊そのもの」については何も書かないようなものである。
野球もまた身体的パフォーマンスであり、それが与える喜びはダンスを見る場合と変わらない。それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
長嶋茂雄という選手はもう記録においてはほとんどすべてを塗り替えられてしまったけれど、彼がプレイするときに観客に与えた快感に匹敵するものを提供しえたプレイヤーはその後も存在しない。
長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに全身全霊をあげて打ち込んだプレイヤーである。長嶋のプレイを見ているときに、私たちは彼の身体に想像的に嵌入することを通じて「野球そのもの」に触れることができた。その意味で長嶋は一種の「巫者」であったと思う。
長嶋がそうであったように、卓越したパフォーマーに私たちが敬意を払うのは、その高度な能力を鑑賞することを娯楽として享受できるからではない。そうではなくて、私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである。
刈部さんとのインタビューではイチローと井上雄彦さんの「相貌上の相似」がひとつのトピックになった。ふたりとも若いときは、「ふつうの青年」だったが、今やまるで禅僧のような、武道家のような透き通った面立ちになっている。それは「遠くを見ている人」に固有のおもざしである。ひとりは野球という「興行」をつうじて、ひとりはマンガという「娯楽」をつうじて、ある境界線を突き抜けてしまった。
あらゆる職業には「これくらいでよかんべ」というラインがある。99%の人間は、そのラインをみつけると、そこに居着く。1%(もっと少ないかも知れない)の人だけが、それを超える。「そこまで行くことなんか誰も君に要求していない。いまのままで十分じゃないか。これ以上自分に負荷をかける必要はないだろう」という制止の声を振り切って、歩み続ける。歩み続けることを止められないその人たちをみていると、人間はどのような職業の、どのような知識や技能を通じても、「行けるところまで行こう」とすると、「向こう側」に突き抜けてしまうのだなということがわかる。そして、私たちは凡庸な人間には決して達することが出来ない境位に私たちを導いてくれた人々に対して敬意を払うことを禁じ得ないのである。



