【089】構造主義とは
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先日読了した内田樹著「こんな日本でよかったね 構造主義的日本論」(文春文庫:2009年9月)
は、多くのエッセイを含んでいて、それぞれにいろいろなことを考えさせられるが、それよりも何よりも、「構造主義」とか「構造主義的ものの見方」といった内容に興味が惹かれる。
私個人が、どうして内田樹氏に惹かれるのか、といった自問自答に対して、内田氏が「構造主義」とか「構造主義的なものの見方」ということで世間を眺めているのであろうからである、と確信できたことは、私にはかなりのインパクトがあった。
「構造主義」といっても、いろいろな定義があるようで、一つに限定することはできないようであるが、どうやら1950 – 1960年代のフランスを発信源としているらしい。内田氏の説明を引用しておこう。
構造主義というのは 1950 – 1960年代フランスを発信源とした学術分野に共通していたある種の知的な「構え」のことです。どういう「構え」か、一言でいうと、「自分の判断の客観性を過大評価しない」という態度です。(p.291)
上記で言う「学術分野」とは、クロード・レヴィ=ストロース[1]の構造人類学、ロラン・バルトの記号論、ミシェル・フーコーの社会史、ジャック・ラカンの精神分析など、としている。
上記の「客観性の過大評価に関しては、更に詳細が説明されているので、引用して理解を深めておく。
私達が、自分の経験の客観性をつい過大評価してしまうのは、「自分だけにそうみえているもの」と「みんなにもそうみえているもの」の相当部分が「かぶっている」と同時に「ずれている」からです。(p.294)
多少、理解が難しい表現であるが、この内容に関して、内田氏は、野球、サッカー、ラグビーを用いて説明している。即ち、野球もサッカーもラグビーも、それぞれの競技をみていれば、全く別のものに見えるが、それを「ボール・ゲーム」というレベルで、みてみると共通の部分が出てくる。例えば、ボールがフェアかファールか、ボールをキープすることとか奪い合うこととか・・・そうしたレベルでは、同じような考え方が存在している。そうした「ボール・ゲーム」において、競技場の大きさやゲームをする人数といったことは、単純に競技毎の「ローカルな」内容、または「民族誌的」な水準である、と主張する。
こうしたことから、内田氏は、「構造主義的なものの見方」を以下のように説明している。
構造主義的なものの見方というのは、私たちの日常的な現象のうち、類的水準にあるものと、民族誌的水準にあるものを識別する知的習慣のことであるといえるのではないでしょうか。(p.295)
この「ものの見方」は、非常に重要な見方であると私は信じているし、これまでも、こうした見方を実践するように心掛けていたように思う。というよりも、こうした考え方が必要であった。ただし、コンサルタントして、こうした考え方を「抽象化」と呼び、詳細を検討することを怠っていたように思う。
「類的水準」にあるものを認識することによって、狭い視野を拡げることができ、「民族誌的水準」をより高度なものへと引き上げることができるような気がしている。
脚注:[1]
クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)
フランスの社会人類学者、思想家である。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとりとしてよく知られている。(「Wikipedia::クロード・レヴィ=ストロース」より)



