「国民作家」とか「国民的作家」とは

2009 年 10 月 19 日 | カテゴリー: 雑学 | タグ: , ,

【追記:2009年10月26日】
以前、内田樹氏が記述した「私の五大文学アイドル」というのが記述されている投稿記事があったのを思い出した・・・それは、2004年に記述、公開されたものだったが、再発見したので記述しておこう。

私の「五大文学アイドル」というのは村上春樹、村上龍、高橋源一郎、矢作俊彦、橋本治なのである。(「内田樹の研究室::邪神の午後」より)

「国民作家」としては、村上春樹氏だけが下記で記述されているが、その他は「国民作家」ではないのだろうか。ただ、「国民作家」ではないにしても、興味深い方々ばかりがリストされている。

【公開時、投稿記事】
昨日公開した投稿記事「司馬遼太郎氏も吉本隆明氏も読んだことが無い・・・」にある「国民作家」という言葉が気になってネットを調べてみたが、どうも明確な定義はないらしい・・・司馬遼太郎氏や吉本隆明氏どころか、これまで歴史や時代小説の類は、全く興味が無く、手に取ることすらなかった。私が夢中になった(といっても、読み漁ったほどではない・・・)のは、松本清張氏と和久俊三氏のミステリーのみである。と言いつつも、高校生の頃、丸山眞男氏だけは、結構真剣に読んだ記憶がある。

読んでいた記憶はあるのだが、松本清張、和久俊三、丸山眞男とどれをとっても、その書籍の内容の記憶はない。昨日も記述したが、何とも損をしている気持である。(と記述しながら、北杜夫氏や星新一氏も結構読んだ記憶が蘇ってきたが・・・)

そうした中、「国民作家」を求めて、内田樹氏のブログを検索すると、昨日の投稿記事を更に詳しくしたような投稿記事「内田樹の研究室::おじさんの胸にキュンと来る」を見つけたので、引用しておこう(ちょっと長文だが・・・)

その投稿記事によれば、内田氏は「外国の学者が日本的心性について知りたいと思ったら、司馬遼太郎を読むのが捷径だと思う」そうで、更に以下のような「国民作家」が存在していることに気が付く。ただ、きっともっと存在しているのだろうが・・・

(上記リストのリンクは、Wikipedia へ貼ってある。また、解説は、各 Wikipedia から引用している。)

これだけ多くの名前がリストできても、私は読んだことが無い・・・この年齢になって、ちょっと焦りすら感じる。多くのビジネス書を読み漁ったし、経済関連の書籍もかなり読んできたが、どうも「日本の心性」には触れずに来てしまっている・・・

それでは、引用文を掲載しておこう。

村上春樹は司馬遼太郎の跡を継ぐ「国民作家」なのであるが、それに気づいている人は少ないという話。

彼らは私たちの社会の深層に伏流している、邪悪で不健康な「マグマ」のようなものについて意識的である点で共通している。「坂の上の雲」と「ねじまき鳥クロニクル」が同じ「マグマ問題」を扱っているということを言う人はあまりいないけど、実はそうなのである。

その「マグマ」のようなもの(司馬遼太郎はそれを「鬼胎」と呼んだ)は尊王攘夷運動や日比谷焼き討ちや満州事変やノモンハン事件や血盟団事件や60年安保闘争や全共闘運動や連合赤軍事件やオウム真理教事件などさまざまな意匠をまとってそのつど地殻を破って噴出してくる。日本人の心性の深層にわだかまるこの熱価の高い衝動に触れない限り、日本人を集団的な熱狂のうちに巻き込むことはできない。これを根絶することは不可能である。してもいいけれど、仮に根絶できたとしたら、そのときに「日本人」というものはもういなくなる。

集団が成立する程度には熱狂的であり、暴力的・排他的に機能することを自制できる程度には謙抑的である「許容範囲」にこれをコントロールするのが、さしあたり日本の「大人」の仕事である。そのためにはこの「どろどろして不健康で暗いもの」の機能と生態と統御についての技術的知が必要である。

でも、そういうことを考えている人はあまり多くない(というか、たいへん少ない)。司馬遼太郎と村上春樹はそういうことを考えている例外的少数のうちに含まれる、という話をする。

以下はそのときし忘れた話。

むしろ、問題は司馬遼太郎はどうして「国民作家」にとどまり、「世界作家」になれなかったのか、ということではないか。検索すればすぐ知れるが、村上春樹の翻訳はさまざまな言語で数百冊のものがでただちに購入できる。フランスの地方都市の書店でも、村上春樹のペーパーバックは何冊でも手に入った。

しかし、司馬遼太郎の外国語訳を読むことはきわめて困難である。Amazonで現在入手できる英訳は3点しかない(「最後の将軍」、「韃靻疾風録」、「空海の風景」)。「竜馬がゆく」も「坂の上の雲」も「世に棲む日々」も「燃えよ剣」も外国語では読めないのである。

意外でしょ。

外国の学者が日本的心性について知りたいと思ったら、司馬遼太郎を読むのが捷径だと私は思うが、その道は閉ざされているわけである(むろん、藤沢周平や池波正太郎も英語訳は存在しない。ついでに言えば、吉行淳之介も島尾敏雄も安岡章太郎も小島信夫も英語では読めない)。埴谷雄高も谷川雁も平岡正明も村上一郎も吉本隆明も英訳はない。

この選択的な「不翻訳」は何を意味するのか。

とりあえず「日本の50 – 60代のおじさんたちの胸にキュンと来る本」は外国語に翻訳されにくい、ということは言えるであろう。おそらくそれらのテクストを貫流している「熱いもの」が非日本人には「よくわからない」から「なんか気持ち悪い」の間あたりに分布しているのである。言い換えれば、「日本の50 – 60代のおじさんたちの胸にキュンと来るもの」はきわめて国際共通性に乏しい何かだということである。むろん、この「おじキュン」的なものが日本人のきわだって個性的な心性をかたちづくっている。

それは外国の人だってわかっているし、できることなら、それについて知りたいとは思っているのである(たぶん)。「何を考えているのかよくわからない人」というのは隣国民としても、商売の相手としても不安だからである。けれども、それを知ろうとして、踏み込むと、「何かベタっとして気持ち悪いもの」に触ってしまうのである。

困った。

この世界の人々の困惑を解決したのが村上春樹である、というふうな仮説も「あり」ではないかと私は思う。つまり、村上春樹は一面で「外国人読者にもリーダブルな司馬遼太郎」として読まれているということである。

いや、このような仮説については、村上春樹ファンも司馬遼太郎ファンもどちらも憤激されるであろうことはよくわかる。けれども、この仮説は吟味に値するのではないか。

それは「司馬遼太郎を読むおじさん」たちは村上春樹を読まず、「村上春樹を読むおねいさんたち」は司馬遼太郎を読まないという興味深い非対称からも推察されるのである。
いや、ほんとに。

ちょっと話がずれるけれど、吉本隆明の英訳はないのだが、丸山眞男の英訳は山のようにある。それは丸山眞男が「外国人読者にもリーダブルな吉本隆明」だからではないかと私は思うのだが、それ言うと、吉本ファンも丸山ファンもどちらも激怒するであろう。言わなきゃよかった。

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