スポンサーとハングリー精神
何というタイミングなのか、と勝手に驚いている。それは、「辻 雄馬 公式ブログ – Yuma Roots::日本人は甘い!?」という投稿記事が公開されたからである。詳細は、投稿記事を確認して頂きたいが、いわゆる「日本人のハングリー精神の欠如」に関する内容となっている。
個人的には、「日本人はハングリー精神が無い」と日本人が指摘し、それを「だから世界で勝てない」と大声を上げている方々に、かなりの違和感があったが、その理由を説明できずにいた。しかし、最近ちょっとだけ勉強している「日本人論」とか「日本文化論」を適用すると、納得のできる説明がつく。
まずは、上記の投稿記事から、課題となる内容を引用してみよう。
よく日本人はそんなに強くない選手でもスポンサーがついている、だからハングリーじゃないんだ、とか生活(小さい時から)でそこまで苦しくないからハングリーさがない、とか今まで耳にしたことがありました。本当にそうでしょうか・・・?
僕も日本人ですが、世界的にみてものすごく恵まれているとは思わないですし、スポンサーがついている選手はそんなにハングリーさがないんでしょうか・・・??
上記の書き出しで、上記の状況をかなり詳細に説明されている。特に、特別な内容でないが、悲しいかな、テニスの世界では、本当に多くの方々が主張する「ハングリー精神」に対する解説をされている。これを私なりに説明したい。
日本は、その昔から「集団主義」を重んじている国文化を持っている。つまり、欧米における一人一人が自己主張できるような文化ではない。これを河合隼雄は、「日本は「イエ」を持つ民族である」と表現している。
日本の特徴は、この「イエ」は血縁関係に限らず、集団を形成する「場」というものを指し、古来から構成され、現代でも以前のような勢いはなくなったが、それでもこの「イエ」という集団主義の考え方が根強く残っているとしている。
テニスプレーヤーにとって、スポンサーは、選手生命を支えてくれる「イエ」という「場」を提供してくれる。即ち、日本人であって、日本にテニスの拠点を持つ限り、こうした「イエ」に所属することは、文化的には「当たり前」のことである。何も恵まれている、ということではない。
「イエ」に所属することによって、プレーヤーは、ある一定の倫理感を持って「イエ」の存続を維持する必要がある。日本文化の観点から、一旦「イエ」に所属すると、ある時には、自分の欲望を捨てる必要が出てくる。テニスプレーヤにしても同じである。スポンサーが望めば、ある「イエ」に所属する選手は、ある部分で「自分の欲望」を捨てている。これもまた日本文化であるから、これはこれで許容する必要がある。そういう意味では、決して恵まれているのではなく、日本文に照らしてみれば、一長一短ある当たり前の状況なのである。
さて、話を「ハングリー精神」へ移してみると、これも我々が無意識のうちに備えている「日本人論」を適用すれば、簡単に説明することができる。結論から言うと、「日本人は、世界広し、といえども、争いを好まない世界唯一の民族」なのである。これは、坂口安吾の「日本文化私観」に明確に記述されている。
「明日の敵は今日の友」であり、可能な限り争うことをすることなく、「場」の空気に合わせる人種が日本人なのである。よって、日本人であり、日本で育っている限り、我々に欧米のような「ハングリー精神」など生まれるはずが無いのである。そもそも「ハングリー精神」があれば、勝てるという考え方自体が、あまりにも短絡過ぎると私は思う。
上記のように、日本人テニスプレーヤである限り、スポンサーがついて、ハングリー精神がないといった指摘を「そうなんです」と受け入れてしまえば良い。上記の投稿記事のように、全てのテニスプレーを思っての解説は、素晴らしいとは思うが、もうそうした「無理」な説明はやめたら如何だろう。
テニスは、欧米で発展してきたスポーツ競技であることは、誰でも認識している。しかし、今我々が見直すべきことは、「欧米のやり方が正しい」として全てを受け入れるのではなく、日本人として、まずは古来から現代に至るまで受け継がれてきた「日本人らしさ」を許容して、「日本人らしく」世界と戦うことへ切り替える必要がある、という思考にすることである、と私は考えている。そして、最近、自分なりに「日本人論」を再考することによって、そのヒントへの光を見ているような気がする。その詳細は、投稿記事を別にして公開していきたいと考えている。



